公開から1ヶ月ほど経ちましたが、10/1のファーストディということで、映画館に観に行ってきました。
前提として僕はこれまで新海誠作品を観たことはありません。
その上で「君の名は。」には否定的な意見を持ちました。
正直に言ってこのレベルの映画で200億円に迫る(超える?)興行収入を上げたということに対して、東宝とプロデューサーの川村元気氏の企画宣伝力の底力を見た気分です。
僕なりの感想と考察を書きたいと思います。
序盤:キャッチーながら雑な入れ替わり
CMでも見かける新海誠らしい綺麗な映像で始まります。
高校生の男女が入れ替わるという使い古されたネタながら、映像と音楽とシーン替えの妙で上手く話を進めていきます。
三葉の中に瀧くんが入ったときには胸を揉むシーンだけに留め、翌日の三葉とまわりの人達の反応で話を進めたのは面白かったです。
一方で、瀧くんの中に三葉が入ったときには、学校の友達との会話やバイトシーンをがっつり入れてきました。
神木くんの女言葉はこの映画の数少ない見所ではないでしょうか。
個人的にはもう1つの魅力は長澤まさみの声優の上手さだと思います。
入れ替わりが明らかとなり、ふたりでルールを決め、日常が過ぎ去っていく。
そして流れるRADWIMPSの主題歌。
(RADWIMPSの音楽の何が良いのか僕には分かりませんが、それは好みなのでここでは置いておきます。)
なぜ三葉と瀧くんなのか
三葉には、後半で明らかになっていくように、入れ替わりの使命みたいなものがあります。
その使命は非現実的ではあるものの、ファンタジー映画の中の設定としては一応の説得力はあると思います。
一方で、なぜ相手は瀧くんなのか。
僕が観た限りその具体的な理由は説明されていないように思いました。
1つだけあるとすれば、三葉が叫ぶ「来世は東京のイケメン男子にしてくださいーい!」です。
後半に出てくる彗星の墜落と同じように理不尽に、または、新海誠が影響されている村上春樹の言うように好むと好まざるにかかわらず、瀧くんなのだ。
ということなのでしょうか。
入れ替わりに対する葛藤の無さと周囲の受け入れ
幾度も入れ替わる身体とその生活に戸惑いながらも、現実を少しずつ受け止める三葉と瀧くん。
ふたりとも受け止めるの簡単にやりすぎでしょ!周囲の人達も鈍感に受け入れすぎでしょ!
RADWINPSのミュージックビデオのようになる最中、僕はもう、細かいことは気にしちゃ負けな映画なんだなと思い出しました。
中盤:時間軸のズレをはじめとしたトリックと伏線回収
ふたりの入れ替わりは宣伝でも前面に出されていたので、映画を観に行った人のほとんどが知っていたことだと思います。
それだけでは話がもたないので、入れ替わりの時間軸がズレているというトリックが入りました。
彗星接近の話が通じない、電話が繋がらない、三葉が会いにいった瀧くんの反応など、それまで伏線を張っていたものを上手く回収していきます。
三葉の会いにいった中学生の瀧くんと、三葉の入れ替わっていた高校生の瀧くんは、さすがに違うことは分かるだろう・・・とか、スマホでやり取りしていたら時間軸のズレも分かるだろ・・・とか言うのはもう野暮ですよね。
糸守町と宮水神社を巡るストーリー
三葉と瀧くんのラブストーリー以外に深く掘られているのは、糸守町と宮水神社を巡るストーリーだけではないでしょうか。
糸を紡ぐ宮水一家とそれを瀧くんに渡していたことや、口噛み酒=自分の半分を作って御神木に奉納するシーンはとても面白く観ていました。
そして、彗星が落ちることから村を守るために宮水家に託された使命により、時間軸がズレて入れ替わりを行っているという説明も納得感のあるものでした。
そして、三葉の最期を知った瀧くんが御神木を訪ね、口噛み酒を飲み、これまでの全てを悟る。
壁には1,200年前の彗星落下の壁画が映る。
僕はこのシーンが一番印象的でしたし、ここまでの「君の名は。」はそれなりに楽しめていました。
終盤:砂上の楼閣が崩れていくクライマックス
僕はクライマックスには納得していません。
三葉と瀧くんの再会まで見せるべきではありませんし、もっとその前に三葉が生き返るべきでもありません。
これがこの映画を駄作にしていると同時に、興行収入を上げられた要因でもあるようです。
三葉が生き返るべきではない理由
突発的に起こり、避けようのない自然災害によって命が奪われたことは、どうしても東日本大震災を想起させます。
しかも、瀧くんが図書館で犠牲者名簿をめくるシーンまで入れているのですから、新海誠をはじめとした制作陣は意図的に東日本大震災を想起させようとしています。
瀧くんと三葉の頑張りにより、彗星墜落による死がなかったことにされ、ハッピーエンドを迎えます。
これに対して、東日本大震災の被災者へのエール、みんなの祈りをフィクションで叶えたというネット上の反応を見かけたときには目を疑いました。
こんな発想がエールになり得るとは思えません。
(実の被災者がそう思っているなら平に謝罪します)
現実的に死をなかったことにはできません。
「あの時こうしていれば死なせずに済んだ」と悔やむ人も、それが決して実現しないことは分かっています。
東日本大震災を想起させながら、フィクションだからと言って、死者を生き返らしてハッピーエンドを迎えたことには、被災者への冒涜にも感じました。
百歩譲って、三葉が生き返っても、再会してはいけない理由
百歩譲って三葉が生き返ることを受け入れます。
その場合のラストは再会してはいけないと思います。
それでは観客に想像の余地を全く与えません。
たった1つの決まりきった解釈しか生まれず、物語の奥深さは全くありません。
つまり再会まで全て見せてしまった本作は、やはり観客のことなど何一つ信用しておらず、「最後の最後まで見せてあげるから、みんなで感動しようね」ということしか感じませんでした。
ビジネスとしては成功としても、作品としては失敗
優秀な新海誠と東宝スタッフですから、シナリオ作成段階で上記の意見は必ず出たはずです。
それでもハッピーエンドにして最後の最後まで見せることによって観客を掴み、ひいては興行収入を上げるということを選択したのです。
ビジネスとしては成功ですが、作品としては失敗だと思います。
君の名は。にオチをつける
批判ばかりしても仕方ないので、仕方ないなりに、ではどうすれば良かったのかを考えたいと思います。
これまで書いてきたように、僕は三葉を含めた糸守町の人達は生き残るべきではないと考えています。
そしてそれでもある種の希望を示してオチをつけないといけません。
案①:三葉は死んだ、もういない
僕の好きなアニメに「天元突破グレンラガン」があります。主人公の尊敬するアニキが途中で死んでしまうのですが、主人公はそれをこう言って乗り越えます。
「アニキは死んだ、もういない!だけど俺の背中に、この胸に、ひとつになって生き続ける!」
死んだことを受け入れて、それでも自分の心の中に在り続けるというのは、使い古された話ではありますが、受け入れやすいと思います。
口噛み酒を飲んだ瀧くんは、時空を超えて三葉と結びつきます。
三葉は瀧くんの想いを受け取り、瀧くんは三葉の想いを受け取る。
観客だけが知っていたスレ違いを、三葉と瀧くんも理解して共有する。
そういうファンタジーの世界を描いた上で、瀧くんが目覚めると現実は何も変わっていないが、瀧くんの心の中に確かに三葉が存在する。
これだとラストが弱いのでインパクトは無いですが、着地点としてはありだと思います。
案②:唯一の例外として四葉は生きていた
彗星の落下とたくさんの人の死は変えられなかった。
でも1つだけ三葉と瀧くんの頑張りが報われ、四葉だけが生き残っていた世界。
三葉の半分は四葉の中にあり、もう半分は瀧くんの中にある。
高校生になった四葉は入れ替わりの症状が出始め、昔の三葉のおかしな言動に納得がいく。
自分を助けてくれた三葉と、入れ替わり人物(瀧くん)に想いを馳せる。
東京で暮らしている四葉はある日、すれ違う電車のドアにいる瀧くんに気づき、目が離せない。ハッとするふたりの乗った電車が走り出して物語は終わる。
いきなり四葉メインにオチるには、序盤中盤の伏線が無さすぎですがウルトラCとしてどうでしょうか。
最後に
随分と辛口な評価になってしまいました。
もっと気軽に、ただ単純に三葉と瀧くんのラブストーリーをファンタジーとして楽しめばそれでいいのかもしれません。
そう楽しんでいる人が多いからこその素晴らしい興行収入でもあります。
それでもやっぱり文句を言いたくなるのは、制作陣が名作を作る気などなく、ビジネスのためにやっているからでしょう。
成功が妬ましいのが半分と、もっと日本文化に貢献してほしいという願いが半分です。